<文学> 革命か反抗かーカミュサルトル論争

 

カミュの流れで、進みますね。
「革命か反抗か」-カミュサルトル論争は、「アルベール・カミュ あるいは反抗心」(フランシス・ジャンソン)、「『現代』の編集長への手紙」(アルベール・カミュ)、「アルベール・カミュに答える」(ジャン・ポール・サルトル)、「遠慮なく言えば・・・」(フランシス・ジャンソン)の4本の論考で構成されています。サルトルが主宰する雑誌「現代」で数回に渡り繰り広げられたジャンソンサルトルカミュの論争です。発端は「現代」の編集長でありサルトルの同志、というか弟子と言って良いフランシス・ジャンソンカミュ批判から始まります。前年カミュは「反抗的人間」を発表し、当時多くの注目を集め、さまざまな反響や賛否の声があったようです。 

革命か反抗か―カミュ=サルトル論争 (新潮文庫)

革命か反抗か―カミュ=サルトル論争 (新潮文庫)

  • 発売日: 1969/12/02
  • メディア: 文庫
 

 「アルベール・カミュ あるいは反抗心」で、ジャンソンは「『反抗的人間』の場合は、・・」と、いきなり直球で批判を始めます。「文学的な見地からすれば、本書は完全と言っていいくらい成功しているので、この点から見て異口同音の称賛を得たことも驚くにはあたらない・・」と文学的には評価しつつも、カミュの姿勢や思想は徹底的に批判します。形而上、コミュニズムブルジョワジー等々、今では少々時代遅れになってしまったビッグ・ワードを駆使しながらジャンソンカミュ批判を続けます。おそらくこのジャンソンという人はとてつもなく頭の良い秀才で、サルトルから教授された論理展開に忠実に批判を展開したのでしょう。しかし読み進めるうちに、何ともやるせない気分になってしまいました。そもそもこのジャンソンという人は、何のためにカミュを批判するのか?批判を通して何を訴えたいのか、穿った見方をすれば、カミュの成功に嫉妬しているのでは、ないのか等々。

このジャンソンの批評に対して、カミュは「『現代』の編集長への手紙」で反論します。カミュは丁寧に反論していると思うのですが、やはり基本は文学者なので、思想的、論理的には甘いところがある印象です。ここで面白いのは、カミュが「君」(つまりジャンソン)と「君の寄稿者」(つまりサルトル)を意図的に混在させて評論している点です。カミュの怒りといら立ちがひしひしと伝わってきます。と同時にサルトルの代弁者扱いされた秀才ジャンソンも怒り心頭だったでしょう。これが後のしつこいばかりの批判の一因になります。そしてこのカミュに答える形で、いよいよ大御所サルトルが登場します。論評「アルベール・カミュに答える」の前半は少々説明的で、自慢話にも思える記述もあって、やや退屈なのですが、後半の記述はやはり圧倒的です。このカミュサルトル論争は、やはりサルトルの勝ちだというのが一般的評価の様ですが、このサルトルの文章を読むと納得していまいます。ただ個人的には、サルトルカミュを「論破した」と思えるものの、サルトルの記述にもあまり心打つものは見当たりません。

このサルトルの論評で、カミュサルトル論争が終わっていたら、もう少し清々しいものになっていたと思うのですが、最後にフランシス・ジャンソンが「遠慮なく言えば・・」で再び登場します。「アルベール・カミュよ、君の手紙は、僕の論文をひどく気にしながらもやっとのことで黙殺してすませたが、じじつ、君は僕に対してなにも書いていない。だからこそ僕は返事を書く。・・・」と始まるのですが、振られた女性に対する恨み節の様で、ジャンソンが様々な事実と論理を駆使しても、僕には全く響かず、むしろ嫌気がして、最後にはこの本を投げ出してしまいました。

「革命か反抗か」という本書のタイトルは、サルトルカミュの立場を対峙するには巧みタイトルだと思います。もちろんサルトルカミュも革命の必要性も反抗の必要性も認めているわけだから、両者の立ち位置を相対化して表現しているとも言えます。サルトルカミュが直接論争したことの意義はあるのでしょうが、でも、僕はどうしても、フランシス・ジャンソンというある意味部外者が口火を切り、最後まで介入してくるのが不愉快でならないのです。彼のカミュ評価を発表する手段や方法は別にあったはずで、その方が彼の真意をより的確に伝えることができたのではないでしょうか。


だからこの本にお金と時間を費やす意味はあまりないというのが、僕の率直な感想です。そのお金と時間があれば、20世紀最大の哲学者・思想家―サルトルの「存在と無」と若くしてノーベル文学賞を受賞しながら、早逝した稀有の文学者―カミュの「ペスト」を直に読んで、この二人の巨人が、色々とあったけれど同じ時代を共有していたんだ、と思いを馳せる方がよほど健全です。