<映画> ヌーヴェル・ヴァーグ

 

1950年から60年代は、フランスの芸術・文化が、前衛的で刺激的で最も輝いていた時代の様に思います。僕が、高校・大学生活を送っていたのは1980年代なので、リアル・タイムでの体験ではなかったのですが、折しも日本では「ニューアカデミズム」というブームがあって、構造主義現象学言語学等の新たな思想や領域が、様々な形で注目され、脚光を浴びた時代でした。それらは新しい知的な刺激で、僕も構造主義言語学の書籍をそれなり読破していました。

1950年から60年代のフランスと言えば、文学ではカミュセリーヌ、戯曲ではベケットやイヨネスコ、哲学・思想の分野では、サルトルを筆頭に、メルロ・ポンティやレヴィ―・ストロース等々、現在でも大きな影響を及ぼす知の巨人たちで目白押しですね。
実存主義や不条理、構造主義等はたいへん魅力的で、本当に理解していたかはなはだ疑問ですが「構造主義的には・・」とか偉そうに語っていた恥ずかしい記憶があります。この頃の構造主義熱は少々加熱し過ぎていて、マルクスやデュルケムは言うに及ばす、ギリシャ哲学やガリレオニュートンといった自然科学者・哲学者も構造主義的にとらえ直そうという風潮があった様に思います。

さて、1950年から60年代のフランスでは、映画の分野においても、新たな潮流が起こります。「ヌーヴェル・ヴァーグ(新しい波)」と呼ばれる若手の映画作家達による、新たな映像表現の実験です。この「ヌーヴェル・ヴァーグ」という呼称がいつから始まり、広まったのか、また、この「ヌーヴェル・ヴァーグ」という新たな映画表現の潮流が、いつ始まり、いつ終わったのか、諸説あるようですが、僕の「ヌーヴェル・ヴァーグ」との出会いは、ジャン=リュック・ゴダールの「勝手にしやがれ」でした。ストーリーは良く覚えていません。
主役のジャン・ポール・ベルモンドジーン・セバーグのやりとりが最高に面白くカッコ良かった記憶はあるのですが、結末は不条理?で情けないものだった気がします。しかしシナリオも演出やカットも、役者もすべてが刺激的でした。何よりも若者のエネルギーと破壊力に満ち溢れていました。ゴダールに続いて、フランソワ・トリュフォーの「大人はわかってくれない」「突然炎のごとく」、アラン・レネの「二十四時間の情事」「去年マリエンバードで」等々を目当てに、都内の映画館を行ったり来たりしていました。

ヌーヴェル・ヴァーグ」と括られる作品群の中で、何が一番好きかと問われれば、僕はルイ・マルの「死刑台のエレベーター」をあげます。ルイ・マルが25歳の時の作品。信じられない早熟の天才です。マイルス・デービスのトランペットが最高にクールでカッコ良いです。そして、アンリ・ドカエのモノクロの映像も圧巻です。主演の一人、ジャンヌ・モローは、後のフランソワ・トリュフォーの「突然炎のごとく」の圧倒的存在感に比べるとかなり大人しめですが、セクシーでカッコ良いです。知的な表情は、やはりジャンヌ・モローです。この作品は、殺人に絡む、いわゆるサスペンスですが、複雑になりがちなストーリーをコンパクトに展開しつつ、ドキドキ感を最後まで維持するルイ・マルの演出力は素晴らしいと思います。ゴダールの様な破壊力はないですが、何ともクールで印象的な秀作です。