<映画> 羅生門黒澤明

 

羅生門」は。黒澤明監督が1950年に発表したモノクロ、88分のどちらかと言えば短い作品です。この後黒澤監督は「生きる」「七人の侍」などの代表作を世に送り出しますから、「羅生門」はどちらかと言えば初期の作品と言えるでしょう。映画のモチーフとなった原作は芥川龍之介の短編小説「藪の中」と「羅生門」です。しかし「羅生門」はホントに短編なので(10ページ程度の一つのエピソード)、映画「羅生門」の想の多くは「藪の中」からきています。「藪の中」では映画のタイトルとしてはキャッチ―ではないので、「羅生門」というタイトルにしたのかな? 出演は、三船敏郎森雅之京マチ子志村喬千秋実、上田吉二郎、本間文子加東大介の8名―男優陣は、その後の黒澤組の主要な役者陣ですから、今から思えば何ともゴージャスなキャスティングです。モノクロ映画ですが、自然光を生かすために鏡の反射を使ったり、カメラが太陽光を直接とらえたり、と何とも革新的な映像になっています。音楽も、テンポの速めのボレロが全編を覆い、映画にリズムと切迫感を与えます。時代背景は平安時代と古いのですが、シナリオ、俳優、カメラ、音楽が醸し出す映画全体のテーストは、何ともモダンでクールです。ちょっとヌーヴェル・ヴァーグ調です。

羅生門 デジタル完全版

羅生門 デジタル完全版

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 平安時代の京の都。繰り返される戦乱と疫病の流行に、天災も加わり、退廃的な時代です。羅生門もかなり荒れ果てていて、そこに雨宿りをする3人の男がいます。冒頭は、芥川の小説「羅生門」を想起させるものですが、その後の展開は、脚本の黒澤明橋本忍の観察眼と人間観に圧倒されます。これは、芥川龍之介の原作を大きく凌駕する人間の本質に迫ったドラマです。

豪雨の中の羅生門の下に、三人の男―杣(そま)売り(志村喬)、旅法師(千秋実)、下人(上田吉二郎)-がいます。その中で「杣(そま)売」志村喬が、語り部役的にある事件について語り始めます。
数日前、ある山中で、一人の侍の死体が発見されます。悪名高い盗賊の多襄丸(三船敏郎)が、山中の藪の中で、侍夫婦を襲い、妻を犯し、夫を殺害したというのが事件の概要ととらえられています。まずは、杣売り(志村喬)、殺された侍と会ったという旅法師(千秋実)が、検非違使の取り調べの場で、証言を始めます。
そして、盗賊の多襄丸(三船敏郎)が、下手人として連行されてきます。彼は、山中で侍夫婦を見かけ、その妻に欲情し、侍を捕縛した上で、妻を手籠めにしたと語ります。ところがその妻は両者の決闘を要求し、勝った方の妻になる言い始めます。多襄丸と侍は戦い、結局多襄丸が侍を倒すのですが、その間にその妻はどこかへ逃げてしまった、というのが多襄丸の証言です。
続いて、侍の妻(京マチ子)の証言が始まります。手籠めにされた後、多襄丸は侍を殺さずに逃げたと言います。妻は夫である侍を助けようとしますが、彼は眼前で別の男に身体を許した妻に軽蔑の眼差しを浴びせます。その視線に耐えられず、妻は自分を殺すように懇願し、緊張のあまりそのまま気絶してしまいます。目が覚めると、夫には短刀が刺さって死んでいた。夫の後を追って死のうとしたが死ねなかったというのが、妻の証言です。
さらに、巫女が呼ばれ、死んだ侍の霊が呼び出され、その証言が語られます。侍の霊が言うには、妻は多襄丸に辱められたにも関わらず、彼に情を移し、一緒に行く代わりに自分の夫を殺すように求めたと語るのです。しかし、その自己中心的な女の態度に、さすがの多襄丸も呆れ果てて、女を生かすか殺すかはお前が決めて良いと侍に伝えます。それを聞いた女は逃亡し。多襄丸も姿を消し、一人残された侍は、無念のあまり自害したというのが、侍の霊の証言です。

そこには一つの事実―一人の男(侍)が殺された(死んだ)-という事実があったはずです。
しかし、そこにいた三人の当事者―多襄丸、殺された侍、その妻の言い分というか認識は異なります。豪雨の羅生門の下にいた三人の男のうち“下人”が「三人とも嘘をついている」と“杣(そま)売り”に言い寄ります。事件に巻き込まれるのを恐れ、詳細を黙していた唯一の客観的目撃者?“杣(そま)売り”も、観念して自分が目撃した事実を語り始めます。それは三人-多襄丸、殺された侍、その妻が語った証言とは、異なる“事実”ですが、自分に都合の良いように曲解し、脚色し、証言を組み立てれば、多襄丸、殺された侍、その妻の言い分も全くと嘘とも言い切れない気もします。

我々が「事実」「真実」と呼ぶものは「客観的なもの」と信じがちですが、決してそうではないことをこの映画は教えてくれます。そもそも「客観的」というのは、とても複雑で難しい問題です。我々が「事実」と呼ぶ事象も、結局はある人間の認知や立場や、その他複雑な人間的フィルターを通して語られたものに過ぎません。僕は「誰かに騙されたかも」とか「あいつは嘘をついている」とかネガティブな気分になった時に、この映画を観る事にしています。結局、自分を含めたどの人間にもこういう側面があるのだと再認識し、少し冷静になるために。
人間を信じないわけではない。しかし完全には信じない。それは彼(彼女)が意図的に嘘を言っているという訳ではなく、こういう自衛本能的な、あるいは無意識な態度を誰もが持っているものだ、という、それこそ「真実」を思い起こすために。

 

この映画は、1951年ヴェネチア国際映画祭金獅子賞を受賞し、翌年アカデミー賞(最優秀外国語映画賞)を受賞しています。日本映画の国際映画界での評価を高める契機となったと同時に、その後の世界の映画界に多大な影響を与えた稀有の傑作と思います。