差別について思うこと

 

ジョージ・フロイド氏の悲劇的な事件以来、人種差別に抗議する行動が世界的に拡散しつつあります。今まで、微妙なバランスの上に保たれていた秩序の崩壊、その欺瞞が一気に噴出しつつあるように見えます。近現代において、人類は様々な差別を克服しようと、様々な犠牲を払いながら、差別のない社会を目指し、大きな進歩を遂げてきたと思っていました。しかし、社会、世界の基調として経済的格差が拡大し、そこに世界のリーダーたる米国でエキセントリックな大統領が登場し、さらに全世界を覆う新型コロナ禍の中で、隠蔽されていた様々な矛盾や現実が一気に露呈してしまいました。

差別問題は、解決されていなかったという事でしょうか? あるいは、人々が押さえ込んできた不満が、一気に爆発してしまったという事でしょうか? 状況は少しづつかもしれませんが、確実に良い方向に向かっていたのだと思います。欧米での変化、象徴的には南アフリカアパルトヘイトの廃止。サッカーやラグビーなどスポーツの世界を見れば、人種などもはや問題ではありません。勝利という共通の目的のために、全員が最善を尽くします。昨年のラグビーW杯は、その意味で象徴的で感動的なものでした。国籍や人種は問題ではなく、基本的な要件を満たした選手は、日本代表チームに属し、そしてあの驚くべき結果を残したのです。もし仮に、純日本人だけでチーム編成をしたら、あの成果はありませんでした。ルールの中で、ダイバシティを取り込み、いかに結果を出すか。ラグビーというスポーツが、我々に残してくれた教訓は、とてつもなく大きかったと思います。

しかし今、すべてが、少し極端に振れてしまっているのだと思います。楽観的に言えば、現在はその修正のプロセスと願いたいです。

 

ところで日本は?

日本は、島国で、基本日本人という単一民族の国家ですから、欧米と比較すると、人種差別的な問題はそれほど深刻ではないと言われています。しかし過去を振り返ると、アイヌ琉球の人々を、いわゆる日本人は統合してきました。特に、琉球(現”沖縄”)については、表向きは差別的な意図は示しませんが、米軍基地を集中させています。政府は沖縄の地政学上の戦略的重要性を主張します。軍事戦略的な是非は分かりませんが、太平洋戦争末期の沖縄の悲劇やその後のアメリカ占領下の苦労を考えると、東京、いや日本人全体が少し考えを改める必要があると思います。沖縄にすべてを押し付け、’臭いものに蓋’的対応は、多分長続きしないと思います。

僕が幼少の頃、こんな小さな田舎町でも、差別的な現実がありました。一つはいわゆる在日韓国・朝鮮人に対する差別です。その頃多くの在日韓国・朝鮮人の皆さんは、パチンコ店のような遊興業やお肉屋さんのような屠殺に関わる仕事に従事していると大人達から聞かされました。だから、パチンコ屋の子供とは付き合うな、と。もう一つは、「部落」です。今はほとんど無いと思うのですが、かつてはある地域が「部落民」の住む地域とされ、様々な不当な差別を受けていました。典型的なのは、結婚に関わることです。〇〇地域の娘と結婚すると言うのなら、お前は勘当だ!みたいな。部落差別は、過去の政府のご都合主義で生み出されたもので全く理不尽なものです。日本政府もこの事に気づいて「同和教育」なる的外れなプログラムを学校教育に取り入れ、僕も小学校の道徳の授業で受けた記憶があります。でも、当時は大人の意識が変わっていないので、子供にとっては、部落問題を顕在化させるだけで、むしろ逆効果だったかもしれません。

政府の方針もあって、日本で生活する外国人が増えています。彼らは、すでに日本社会を担う重要な仲間です。もちろん生活習慣の違いとかがあって軋轢が生じることもありますが、我々はもう少し大らかになる必要があると思います。少なくとも人口比における犯罪率において、外国人の犯罪率が高いという有意は確認できていないと聞いています。

差別あるいは差別意識というのもが完全に無くなるとは、さすがに能天気な僕でも思っていません。そして犯罪や悲劇も決して無くならない。しかし、それらを人種や国籍という分かりやすい属性に結び付けるのはあまりに短絡的です。白人の中にも、良い奴もいれば悪い奴もいる。黒人の中にも、良い奴もいれば悪い奴もいる。日本人の中にも、良い奴もいれば悪い奴もいる。それだけの話です。単純化しない理性が我々に求められているのだと思います。同時に、社会に組込まれてしまった差別構造をどう解消していくか、今まで多くの先達が積み重ねてきた努力を我々は一歩一歩でも継続するという事だと思います。この新型コロナ禍という苦難が、今の社会の矛盾や問題をあぶり出し、その解決に向かっての契機になると信じています。