<文学> ペスト(カミュ

 

新型コロナウィルス禍の中で、カミュの「ペスト」がベストセラーになっていると聞きました。ミーハーおやじ的に文庫本を買おうと思ったのですが、書棚の中を探ってみると、昭和58年刊の新潮文庫が見つかりました。中はかなり黄ばんでいて、ちょっと読む気もしなかったのですが、新たに買うのももったいなく、とりあえずこの古本を読むことにしました。
昭和58年というと1983年です。僕が大学生の頃です。「異邦人」は、良く意味も分からず高校生の時に読んでいたはずなので、多分その延長で「ペスト」を読んだのでしょう。しかし、よく今までこの古い新潮文庫が残っていたものです。 

ペスト (新潮文庫)

ペスト (新潮文庫)

  • 作者:カミュ
  • 発売日: 1969/10/30
  • メディア: ペーパーバック
 

 現在の新型コロナウィルスによるパンデミックな状況で、カミュの「ペスト」がベストセラーになる事は、分かるには分かります。何かヒントを得たいという人もいるでしょうし、暇つぶしに、似たような災禍を描いた小説でも読むかという人もいるでしょうし、ベストセラーになっているみたいだから読むか、という人もいるでしょう。

実際「ペスト」を読み進めると、現在我々がコロナに直面しつつ取っている行動、抱いている感情と類似点が多いことに、改めて驚かされます。これはカミュの卓越した洞察力と想像力が為せる業なのか、人間が如何ともしがたい苦難(戦争や疫病)に直面した時に取る、ある意味普遍的な反応なのか解釈が難しいです。おそらくどちらも当たっているのでしょう。僕は後者―人間の普遍的な反応―だと考えていますが、いずれにせよ、この人間の普遍性を文学作品に昇華させたカミュの手腕に感嘆せざるを得ません。

カミュの作品は不条理文学と言われます。そしてもう一人のMr.K―カフカも不条理文学と括られます。確かにカミュの「異邦人」とカフカの「変身」、カミュの「ペスト」とカフカの「城」はある種の対を成している様にも思えます。前者は個人的な不条理、後者は社会的な不条理とでも言いましょうか。僕は二人とも好きなのですが、同じ不条理でも、カミュ=陽、カフカ=陰という印象を持っています。(この点はまた別の機会に書きたいと思います。)いづれ、不条理とは、「理屈に合わないと」という事でしょう。ある日虫になっていたり、太陽のせいで人を殺したり、迷路のような城に入り込み、具体的な答えが無いまま流浪してしまったり、ペストという個々の人間ではどう仕様もない状況に直面し、実際命を落としたり、これらはすべて不条理なのでしょう。しかしこれは決して特別なことではなく、僕らの回りは理屈に合わないことばかり、小さな不条理だらけですね。自分の思う通りにはならない、しかも個人的な努力では如何ともし難い事象に満ち溢れています。

「ペスト」の登場人物達は、それぞれの立場や信念を抱えながら、ペストという不条理に対峙します。でも結局、死んでしまう者もいて、生き延びるものもいるのです。その分岐点がどこにあるのか、誰も説明できません。しかし一つ言えることは、その結末はともかくとして、この絶望的な状況の中で、彼らは自分の信念に忠実に行動しようとし、異なる結果に辿り着く、否、導かれるのです。不謹慎な言い方かもしれませんが、ここに法則や理屈はありません。事実があるだけです。カミュは作品の最後でこう語ります。「ペスト菌は決して死ぬことも消滅することもないものであり、数十年の間、家具や下着類のなかに眠りつつ生存することができ、部屋や穴倉やトランクやハンカチや反古のなかに、しんぼう強く待ち続けていて、そしておそらくはいつか、人間に不幸と教訓をもたらすために、ペストがふたたびその鼠どもを呼びさまし、どこかの幸福な都市に彼らを死なせに差向ける日が来るであろうということを。」 
こう暗示的に語られると、再び「ペスト」という物語とその登場人物に戻りたくなります。
共感できる人物も共感できない人物もいます。しかし各々の結末は、善悪では決まらないのです。そう考えると、僕たちにできることは、あまりに平凡なことですが、結果を恐れずに、自分が信じた通り行動する、という事だけではないでしょうか。

難しすぎるテーマに触れてしまい、馬鹿なこと書き連ねてしまいました。率直な意見を聞かせてください。