<文学> 鼻(芥川龍之介

 

トリュフォーの「恋愛日記」の脚フェチおじさんの事を書いていたら、芥川龍之介の「鼻」の事を思い出しました。「鼻」はフェチの話ではなく、自分の大きすぎる、長すぎる鼻に悩む禅智内供という僧侶が自分の鼻にコンプレックスを感じる話しです。短編ですが、芥川龍之介風の虚構とユーモアとボケとが見事なまでに融合していて、それが引き締まった文体で語られていきます。よく思うのですが、芥川の短編は、落語の演題にしたら最高だろうな、と思います。この「鼻」もそうですが、「芋粥」や「杜子春」もシリアスでありながら、何とも言い難いユーモアがあります。

 

 

「鼻」ですが、この禅智内供という僧侶は、この長い鼻のために二つの困りごとに直面します。一つは実際的に、鼻の長いのが不便だったこと。鼻が長すぎて一人で食事もできない。弟子に鼻を持ち上げてもらい、その間に食事をする。それ以上に深刻だったのは、この鼻によって傷つけられる自尊心の問題でした。「・・こういう鼻をしている禅智内供のために、内供の俗ではないことを幸せと言った。あの鼻ではだれも妻になる女があるまいと思ったからである。・・・そこで内供は、積極的にも消極的に、この自尊心の毀損を恢復しようと試みた。」

それから、内供の鼻を短くするための挑戦が始まります。烏瓜を煎じて飲んだり、鼠の尿を鼻へなすってみたり、高名な医師の勧告で、湯で鼻を茹でてみたり。この「茹で法」は効果はあったのですが、内供は別の事実に直面します。「・・二三日たつうちに、内供は意外な事実を発見した。それは折から、用事があって、池の尾の寺を訪れた侍が、前より一層可笑しそうな顔をして、話もろくろくせずに、じろじろ内供の鼻ばかり眺めていたことである。」
さらに芥川はこう語ります。「-人間の心には互いに矛盾した二つの感情がある、勿論、だれでも他人の不幸に同情しない者はない。ところがその人がその不幸を、どうにかして切りぬけていることが出来ると、こんどはこっちがなんとなく物足りないような心もちがする。」

最後、内供の鼻は、もとの長い鼻に戻ります。そして、こう独白的な文章が続きます。「内供はなまじいに、鼻が短くなったのが、かえって恨めしくなった。」「内供は慌てて鼻へ手をやった。手にさわるものは、昨夜の短い鼻ではない。上唇の上から顎の下まで、五六寸あまりもぶら下がっている、昔の長い鼻である。内供は鼻が一夜のうちに、また元の通り長くなったのを知った。そうしてそれと同時に、鼻が短くなったときと同じような、はればれした心もちが、どこからともなく帰ってくるのを感じた。」

トリュフォーの「恋愛日記」の脚フェチと芥川の「鼻」の鼻コンプレックスは全然世界観やアプローチが違います。しかし、人間がある部位というか、部品に関するこだわりが作品のテーマになっていると意味では、共通性があると思い、そのポジティブな評価もネガティブな評価も、「部品」に拘る、という意味では同じように思います。しかも、この「部品」に拘るという人間の側面は、ある意味無視できないと思っています。フェティシズムという性向に照らせば、僕も「脚」や「鼻」に対する嗜好があって、対象は別かもしれませんが、それは誰にもあるもので、否定することもできません。