<映画・文学> 存在の耐えられない軽さ

 

何とも長いタイトルだが、一度聞いたら決して忘れることない印象的なタイトルの作品です。原作はチェコスロバキア出身でフランスに亡命したミラン・クンデラ1984年に発表した小説。その後、フィリップ・カウフマンにより1987年に映画化されている。僕は、まずは映画を観、その後小説を読みました。 

 舞台は、1968年前後のチェコスロバキアプラハプラハの春の前後の話しです。民主化の風が吹き始めたプラハ、主人公のトマシュは優秀な脳外科医だが、複数の女性と自由奔放に付き合うプレイボーイでもある。そんな彼が、執刀のために訪れた小さな湯治場で、カフェのウェイトレスをしているテレーザと出会います。この出会いから、トマシュの人生は大きく変化していきます。プラハに戻ったトマシュのアパートに、突然テレーザが押し掛けた挙句、居座ってしまう。テレーザは、カメラマンになりたいと言う。一方で、トマシュは以前から付き合っている画家のサビーナとの関係も終わらせたくない。愛憎に満ちた三角関係というより友情さえも感じさせるような奇妙な三角関係が始まります。
一時プラハには、民主化・自由化の雰囲気が充溢したものの、結局ソ連軍によるプラハ侵攻が始まります。映画では、この侵攻シーンがモノクロと荒れた古い映像でリアルに描かれ、テレーザは無心にカメラのシャッターを切り続ける。トマシュは彼女を守りつつ、群衆に交じってスローガンを叫ぶ。しかし次第に、チェコの民衆の声は弾圧され、再びソ連支配の重苦しい空気が流れて始めます。
トマシュはテレーザと共に、一足先に亡命していたサビーナを頼って、ジュネーブへと逃避します。テレーザは雑誌のカメラマンの職を得、一方テレーザとサビーナの仲が急速に縮まりますが、トマシュはサビーナとの逢瀬を続け、行きずりの女性とも関係を持つことを止めません。トマシュの止まない女癖の悪さ、生きることへの軽薄さに疲れ果てたテレーザは、「私にとって人生は重いものなのに、あなたにとっては軽い。私はその軽さに耐えられない。」と手紙を残し、愛犬を連れてひとりプラハへ帰ってしまいます。ようやくトマシュは失ったものの大きさに気づき、ソ連の監視下のプラハへと戻ります。自分の主義を曲げようとしないトマシュは医者の職を得られず、窓拭きの仕事に甘んじるようになる。しかしテレーザは、プラハの生活にも疲れ、二人はプラハを逃れ、地方の農村でつましくも平和で幸福な生活を送り始めます。しかし、そんな平穏な生活もある日突然、終わりを迎えます。 後日アメリカで暮らすサビーナのもとに、二人が交通事故で死んだことを知らせる手紙が届きます。
あまりに唐突で悲劇的な結末です。しかし、この作品の魅力は、トマシュと二人の女性―テレーザとサビーナの、何とも自由で、生命力に溢れ、自分の考えには忠実で、能動的に生きようとするその生き様にあると思います。トマシュは女たらしで、テレーザに「あなたはごく軽い」と批判されますが、医師の職を失っても共産主義に対する自分の信念は貫き、そしてテレーザを守り抜こうとします。テレーザは、とても純朴で意志が強く、自分の思いに正直で忠実な女性です。サビーナは、ある意味この物語で最も魅力的な登場人物だと思うのですが、芸術家らしい自由な生き方をする一方で、自分の信念、美意識には対しては頑固なまでに正直な生き方をしようとします。


最後に、少し長くなりますが、この作品のプロローグを引用しておきたいと思います。
永劫回帰という考えはミステリアスで、ニーチェはわれわれがすでに一度経験したことが何もかももう一度繰り返され、そしてその繰り返しがさらに際限なく繰り返されるであろうと考え、その考えでは自分以外の哲学者を困惑させた。いったいこの何とも訳の分からない神話は何をいおうとしているのか。
永劫回帰という神話を逆に見れば、一度で消えてしまい、もどってくることのない人生というものは影に似た、重さのないもので、すでに死んでいるものでもあり、それが恐ろしく、美しく、崇高であっても、その恐ろしさ、崇高さ、美しさというものは無意味なものである。」
「無意味なもの」を「軽さ」と呼べばよいのだろうか。「軽さ」とは、すなわち「自由」のことなのだろうか。難しすぎる問ですが、僕のこの作品の登場人物たちの生き様が好きです。